風知草:戦後は続く、どこまでも=山田孝男
原爆の製造法は二つある。ウランを濃縮する広島型と、プルトニウムを使う長崎型だ。イランは平和利用という名目で濃縮ウランを蓄え、核武装を疑われている。日本は原発から出たプルトニウムを蓄えているが、疑われていない。
だが、日本に軍事的意図がまったくないとは言えない。平和利用目的の原子力エネルギーにはいつでも軍事転用できるという含みがある。原発は軍事と無関係ではない。
「核兵器と日米関係」(06年、有志舎刊)でサントリー学芸賞を受賞した黒崎輝(あきら)・福島大准教授(39)によれば、戦後日本の核政策が固まった1960年代、原発推進によって「潜在的核保有国」になろうとした政治家や外交官の意図を裏づける資料はたくさんある。
当時の首相は佐藤栄作(1901~75)だった。佐藤は四つの核政策を示した。「非核三原則(核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず)堅持」「アメリカの核抑止力に依存」「原子力の平和利用推進」「核軍縮推進」である。
このうち「原子力の平和利用推進」には潜在的核保有への意志が秘められていた。
64年、中国の核実験に強く反発した佐藤は、ライシャワー駐日米大使に「核(兵器)は日本の科学、産業技術で十分、生産できる」と語った。茨城県東海村で日本初の原発が臨界に達したのが65年だ。
69年、外務省高官の研究チームが「核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャル(能力)は常に保持する」という内部文書をひそかにまとめた。米ソ英仏中にだけ核保有を認めるNPT(核拡散防止条約)締結直前。福島第1原発1号機完成が70年。この文書は94年、毎日新聞のスクープで露見した。
黒崎によれば、核4政策は佐藤の独創とは言えない。それ以前の日米交渉、霞が関、産業界、与野党のせめぎ合いを踏まえて形成された政策をまとめ、追認したにすぎない。
その後も底流は変わらなかった。北朝鮮の核問題が浮上した90年代、日本でも核武装論が噴出したが、今なお少数意見にとどまっている。
07年、アメリカの核戦略の中心にいたキッシンジャーら4識者が伝統的な核抑止理論の破綻を指摘。09年、オバマ米大統領が核廃絶を説いて耳目を集めたが、以後の世界は、むしろ中露の軍拡、北朝鮮・イランの核開発へ逆行した。
黒崎の話は先週、福島大の研究室で聞いた。高圧洗浄車がキャンパスの放射性物質を洗い流していた。新潟市出身の黒崎は東北大で学び、立教大助手を経て09年着任した。原爆と原発は表裏一体だとすれば、3・11は日本の核政策に根本的な修正を迫るものではなかったか。
日本は軍事転用可能な再処理済みプルトニウムを45トン持っている。長崎型原爆4000発分という。高速増殖炉やプルサーマル(プルトニウムとウランの混合燃料を使う原発)で燃やせば減るが、見通しは暗い。
崩壊した原発の制御さえできないのに、野田佳彦首相は、核燃料サイクル(再利用)は「日本の技術で可能」と言うだろうか。今日、日本核武装という選択肢があるだろうか。
26日、ソウルに世界53カ国首脳を集めて「核安全保障サミット」が開かれる。核物質をテロリストに渡さぬ相談に異存はないが、危険な余剰プルトニウムを生まない政策をこそ話し合ってもらいたい。(敬称略)(毎週月曜日掲載)