調査捕鯨の中止 時代の流れは資源保護
2014年3月31日、国際司法裁判所が日本に対し、日本が現在行っている南極海での調査捕鯨の中止の判決を下しました。
日本はこの判決に従うということですが、妥当というべきでしょう。どうみても流通、食のための捕鯨であって、「調査」はこじつけ以外何者でもありません。
思えば小学生の頃、鯨の肉が給食に出ていた頃が懐かしく思い出されます。
おいしかったかと言われれば、あまりはっきりとした記憶はありませんが、ボソボソしていた食感であり、味付けがされていましたから、鯨の肉そのものの味は私はわかりませんし、特別、おいしかったという記憶はありません。
食文化は、それぞれの国によって異なり、どの動物を食したらどうこうということは他国から干渉されるべきものではありません。
しかし、他方で海の資源は日本のものだけでなく、人類共通の宝でもあります。
鯨が減少した原因は、鯨から油を取るためだけに米国などが乱獲してきたからだと思いますが、そういう人たちから鯨を食べる文化についてあれこれ言われてもという感情がないわけではありません。
とはいえ、鯨を食べなければという次元のものでもありませんし、食べなければ食べないでもどうということはありません。その意味では、もはや鯨は日本の食文化というほどのものでありません。
時代の流れというべき程度のことで、鯨を食べられなくなるのも致し方ないといえます。
一部の料亭では未だに鯨料理を出しているようですが、所詮は「珍味」の域を超えるものではなく、珍しいだけのもの過ぎないのですから、食文化というには無理があると思います。
調査捕鯨とはいいながら、その実質は食べるためだったのですから、もはや調査のために何百頭もの鯨を殺生する必要もないのですから中止が穏当です。
時代の流れという点でいえば、米が日本の食文化と言われながら、若い世代を中心に米離れは顕著です。これを日本の食文化というのかとい点でいえば時代の流れからは流動的といえます。日本の食文化とも言われなくなるかもしれませんし、そうなれば食文化だと言い張っても仕方ないと言えます。
とはいえ、米作りは今後も守らなければなりません。日本の食の安全や自給の確保という点から米に変わるものがなく、また米作りが風土に合っていることからしても日本の米作りは守るべきものです。鯨とは違います。
それでも今後の世界人口の激増の中で食糧問題として考えたとき、鯨も食料の1つとして考えていく時期は来るかもしれません。しかし、それは食文化とは別です。
「人口増に依存する政策はマルチ商法と同じ!」
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