沖縄慰霊の日 島人の心に寄り添って
2012年6月23日
激しい地上戦で約十五万人の県民が犠牲となった沖縄。戦後は過酷な米軍支配を強いられ、復帰後も広大な米軍基地が残る。慰霊の日のきょうは県民の悲しみや苦しみ、怒りに寄り添う日としたい。
一九四五年六月二十三日、沖縄守備隊「第三二軍」の司令官牛島満中将の自決で、日本軍の組織的戦闘は終結した。米軍の沖縄本島上陸から三カ月近く。餓死やマラリア感染死を含めて当時の人口の四分の一を失った事実が戦闘の苛烈さを物語る。
沖縄本島南部の糸満市摩文仁。最後の激戦地跡に造られた平和祈念公園できょう沖縄全戦没者追悼式が行われる。野田佳彦首相も参列し、あいさつする予定だ。首相はどんな言葉を発するのだろう。
戦争で肉親や仲間を失った悲しみ、かつての米軍支配に対する怒り、米軍基地と隣り合わせの生活を強いられる島人(しまんちゅ)(沖縄の人々)の苦しみに寄り添っているか。野田内閣のこれまでの沖縄政策を振り返ると、何とも心もとない。
米軍普天間飛行場(宜野湾市)の返還問題では、名護市辺野古への県内移設を「唯一有効な進め方である」との立場を変えない。
政府の環境影響評価書に対し、仲井真弘多知事が二度にわたって「事実上不可能」とする意見を出したにもかかわらず、だ。
いくら普天間返還のためとはいえ、在日米軍基地の74%が集中する沖縄県に新たな基地を造ることはさらに過重な負担を強いると、なぜ思いが至らないのか。
そればかりか、その普天間飛行場に米海兵隊は垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを配備する計画だという。実戦配備後も事故が相次ぎ、安全性が確立されたとはいえない危険な軍用機だ。
配備を追認する日本政府に、計画中止を求める沖縄県民の声はいつになったら届くのだろうか。
本土決戦に備える時間稼ぎの「捨て石」にされた沖縄。海軍司令官だった大田実少将は最後、海軍次官宛てにこう打電する。「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
沖縄の日本復帰から四十年を経ても、基地提供という日米安全保障条約上の義務を沖縄により多く負わせている現実は、政府も本土の私たちも沖縄への心配りを欠いてきたことを示すのではないか。
慰霊の日は、犠牲者への哀悼と同時に、日本国民が沖縄の人たちに同胞として寄り添ってきたといえるのか、問い直す日でもある。